top of page

敏満寺の農業

 

1.日本の稲作の初め

 人間が生きていくには食料が必要です。現代に生きている私たちは、豊富な食料品に囲まれ飢えということを知りませんが、古代の人々にとって食料を確保することは生死がかかった非常に重要なことでした。縄文時代は木の実、いも、魚介類、猪や鹿などの野獣を食料としていました。縄文時代の中期から弥生時代の初期に水田の稲作が、中国大陸から導入され初めました。

 本格的な稲作は朝鮮半島や中国の長江流域から日本に伝わったとされています。稲作は当時の最先端技術でした。稲を育てるノウハウ、農機具、農業に必要な治水や灌漑の技術は海外からの渡来人からもたらされました。稲作は弥生時代には日本の各地で広く行われるようになりました。米という食料を生産し、備蓄できるようになり、古代の人々の生活は安定するようになりました。人口が増え、人々が定住するようになり、日本の国としての形ができてきました。農耕は日本の長い歴史でも重要な産業であり、そのため日本の神話、祭事、文化には農耕とそれに関連する文物が色濃く反映されています。それは敏満寺においても言えることです。

2.敏満寺地区の稲作の初め

 稲作も簡単な稲作ですと、川や湖に近い湿地帯で木や石の農機具で可能です。滋賀県内では野洲川流域で琵琶湖に近い守山、野洲などに弥生時代の水田や環濠集落がありました。敏満寺は扇状地を上流から扇頂部、扇央部、扇端部と分けた扇頂部に近く、地表の水が地下に潜り込み伏流水となり保水力が弱い土質です。また犬上川の上流から流されて来た河原石が多く、初期の稲作には不向きでした。本格的な稲作を始まるには、鉄でできた農機具と高度な治水、灌漑の技術、多くの人々を使って開拓する実力者が必要です。そのため稲作の開始は犬上川の対岸の甲良地区よりも遅れました。

 滋賀県では古墳時代に、渡来人により稲作が始められました。県内の大きな河川の流域ごとに各氏族が開発を進めましたが、犬上川流域は犬上氏が開発を指揮しました。犬上氏の古墳群は甲良町を中心にありますが、おそらく芹川流域も開発したと思われます。なお余談ですが、手塚治虫先生の名作「火の鳥」には犬上川流域で犬神という登場人物が戦闘をするシーンが登場します。もちろん、この犬上氏は横溝正史の「犬神家の一族」とは何の関係もありません。

図4.jpg

3.水沼荘の誕生

 奈良時代になりますと、従来、犬上氏など地方の豪族の所有地であった田畠を中央の朝廷が支配するようになります。中国から導入した律令制に基づき、日本の各地を国、郡、郷、里と区分しました。滋賀県は近江の国で、今の知事に相当する国司は中央から任命され、郡司はこれまでの地方の豪族を任命しました。犬上氏は平安時代初めまで、今の犬上郡あたりを公的に支配することになりました。

 田畠は、条里制によって開発されました。条里制は土地の一つの区画を当時の1町(ちょう)、約109mを基準に土地を四角形にして管理するものです。当初は田畠は国のものということでしたが、次第に自分で開墾した土地を自分が私有することが認められるようになりましたそうなりますと資力のある寺社や貴族は地方の土豪の協力のもとに田畠を開墾しました。また農民の開墾した田畠を買い集め、広大な土地を所有するようになりました。この土地には荘と呼ばれる管理のための建物、農機具を保管する建物、そして倉が設けられました。後に建物を含む田畠を荘園というようになりました。

 敏満寺地区も奈良時代には荘園であり水沼荘(みぬまそう)と言われました。地区の広報誌「水沼」の名前はここに由来します。奈良東大寺に大仏を建立した聖武天皇が、奈良東大寺にこの水沼荘を含む4000町歩の墾田を寄進しました。その古い麻布の絵図は東大寺の正倉院に保管されています。逆に言いますと、敏満寺の農業はすでにその時代から始まっていたのです。この地図では今の地区の住宅地は芝原という名で荒涼としていたようで、家は高畑地域、キリンビール工場よりの地区にあったようです。これがキリンビール工場などに用地提供されるまでは、田千反、畑千反、山千反と言われ多くの美田を有した敏満寺の農業の本格的な始まりと思われます。

DSC05395.jpg

4.敏満寺地区の水利(犬上川)

 敏満寺地区では古来、犬上川の水を利用して農耕が行われて来ました。犬上氏など甲良地区に居住する豪族は、5世紀末から6世紀に犬上川の上流の、現在の甲良町金屋の一の井堰から水を引きました。敏満寺地区の開発はそれより遅れましたので、一の井堰の下流の二の井堰から水を引きました。それでは足りないので、大門池の水門からも取水しました。

一の井堰とニの井堰ではどれくらい水量が違うのでしょうか?江戸時代には一の井は約1,600戸、約1,000町歩の面積を、二の井は約300戸、133町歩を潤していました。一の井とニの井からそれぞれ取水している各集落にとっては、水の確保は文字通り死活問題でした。一の井側が下流への水流を止めたり、二の井川が一の井の堰を開けたりなど紛争が絶えませんでした。江戸時代には奉行所の裁きを受けることもあり、また明治、大正、昭和の時代になっても紛争は絶えませんでした。

 根本的な解決策として、昭和7年(1932年)に金屋に頭首工が建造が開始され、昭和9年に完成しました。頭首工とは河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路に流し込む施設です。昭和10年には幹線水路も完工し、昭和11年に使用が開始されました。さらに昭和9年には、犬上川ダムの建設に着工しました。太平洋戦争によって工事は遅れ完成したのは昭和21年でした。形式は重力式コンクリートダムで本格的コンクリートダムとしては初の農業用ダムでした。その後、水路改修や排水路改修、堰の改良が行われ、昭和32年に全ての事業が完成しました。流域の全地域で用水が確保されて、二毛作も可能となり、水問題は解決しました。

clip_image0022.gif

5.敏満寺地区の水利(大門池)

  大門池は人工の池です。敏満寺地区の田畠の水が犬上川のニの井の水だけでは足らないので作られました。古くは水沼池といいました。大門池から地区への水路は”めんど”と称していた水門から流れていました。この位置は正倉院の水沼荘の水沼池には鮮やかな朱色で描かれていました。非常に重要な場所ですので、春の大祭の宵宮の神役や神輿の行列の際には、途中にここで神事をとり行います。

 このめんどからの水流は、大門池の土手の下に伏せた底樋より放水されます。めんどは池の西側にあり、古めんどと言われます。後世いつの時代か不明ですが、東側に古めんどよりも一段低い位置に新めんどが造設され、非常用水に用いられました。古めんどを全開して農業用水に流していても、低い位置の新めんどから非常用水を流せる構造です。

 大門池の水は、農業用水、生活用水、防火用水として、今も敏満寺地区を昔と変わらず流れています。

収穫されたもち米で、餅つき大会開催の様子

CIMG2660.JPG
CIMG2656.JPG
CIMG2663.JPG
CIMG2662.JPG
CIMG2655.JPG
bottom of page