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​敏満寺の歴史と近年

 
 敏満寺には、かつて九世紀末から十世紀初頭の平安時代に建てられた寺院(天台密教寺院)があり、その名前であった「敏満寺」が現在の地区名として残ったと言い伝えられています。このお寺は、現在の胡宮神社付近を本堂とし、多賀サービスエリア付近までの敷地に40余りの塔堂が立ち並ぶほど大きな寺院で、同じ天台寺院である西明寺・金剛輪寺・百済寺といった湖東三山と並ぶ勢力を誇っていたようです。

 

 そして戦国時代、敏満寺は浅井長政や織田信長に攻め入られ、当時120以上あったという坊舎は炎上焼失してしまうことになります。近年に数回の発掘調査が実施され、高く盛られた土塁や、深く掘られた空堀の形状の遺跡が発掘されたことから、要塞化した寺院遺構であったとが判明しました。また、平成9~12年の下り線サービスエリア改良工事に伴う発掘調査では、溝で区画された中に掘立柱建物、地下式倉庫などを配置した戦国時代の遺構などが検出されたことから、大寺院であった敏満寺を中心に、門前町的な空間がつくられていたことも判明しました。

参考 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/2505

 

              Q&A

敏満寺の地理

Q1)敏満寺地区はどこにありますか?

A1)滋賀県の琵琶湖の東、彦根市の近くの犬上郡多賀町にあります。

Q2)敏満寺にはどのようにしたら行けますか?

A2)JRの最寄り駅は彦根駅、南彦根駅、私鉄は近江鉄道多賀大社前駅です。国道307号線沿いで、名神多賀サービスエリアは敏満寺地区内にあります。

Q3)敏満寺の名前の由来は何ですか?

A3)昔、今の胡宮神社や名神多賀サービスエリアの一帯にあった大寺院が地区の名前の由来です。

Q4)敏満寺はどのような地形ですか?

A4)滋賀県の東には鈴鹿山脈があります。その谷あいの小さな流れが集まり犬上川になり、敏満寺の南を流れて琵琶湖に注ぎます。山から平野部にかけては扇を広げたように土砂が蓄積し扇状地といいます。扇状地は上流から扇頂部、扇央部、扇端部と分けられます。犬上川の扇頂部は富之尾から金屋橋の辺りになり、岩石の粒子が大きいです。敏満寺はこの扇頂部に近く、地表の水が地下に潜り込み伏流水となり保水力が弱い土質です。伏水流は扇央部の地下を流れ、中仙道を境に扇端部で湧水として地表に出て来ます。この扇状地で犬上川は水路をあちこち変えてきました。昔は今よりも青龍山より、今の地区の住居の辺りが川と川原の時期もありました。そして敏満寺地区では古来、犬上川の水を利用して農耕が行われて来ました。敏満寺地区の東には3つの峰をもつ青龍山があり、その麓には胡宮神社、名神多賀サービスエリアがあります。また奈良時代に人工的に作られたと思われる大門池があります。

 青龍山から流れる水をこの池に集めて、低地の農地の灌漑用水に使用しました。敏満寺地区の発展にはこれらの水利が大きく貢献しました。詳細は、下のボタンよりご覧ください。

​Q5)敏満寺はどのような地区ですか?

A5)人口約850人の地区で、いくつかの小字にわかれています。地区の住人は普段小路と言ってます。

 詳細は、下のボタンよりご覧ください。

​Q6)青龍山はどのような山ですか?

A6)青龍山(地理院表記は青竜山)は敏満寺山とも言われています。海抜333.1mです。胡宮神社から登れます。地区から見て左から磐座のある峰、見晴場、頂上の3つの峰が連なって優美な姿を呈しています。古代の日本では山が信仰の対象になることが多かったです。磐座はその象徴で、標高310mに巨石があり社が祀られています。神社に社殿ができる以前は人々は山を拝んでおり、敏満寺という大寺院はこの青龍山の麓に作られ、胡宮神社はその跡地にあります。

Q7)大門池とはどんな池ですか?

A7)奈良の東大寺の正倉院に古ぼけた13枚の麻布があります。その中の1枚が東大寺の荘園水沼荘、今の敏満寺地区の絵図で畳1枚の大きさでボロボロで字も読みにくいです。天平勝宝(751年)の年号があります。この地図に大門池(水沼池)があり、水門の印の赤い井桁も記載されています。敏満寺地区は扇頂部に近く灌漑がむづかしく古代、甲良地区よりも開発が遅れました。

 犬上氏など甲良地区に居住する豪族は、5世紀末から6世紀に犬上川の上流の一の井から水を引きました。敏満寺地区の開発はそれより遅れましたので、一の井の下流の二の井から水を引きました。それでは足りないので、大門池からも取水したのが地図の赤い井桁の水門からでした。なお大門池と言うのは、敏満寺の南大門が近くにあったことに由来すると言われています。

Q8)敏満寺の宗教施設はどんなところで、何をされていますか?

A8)大字敏満寺は240軒前後ですが、歴史が古く宗教心の篤いためか宗教施設の多い地区です。地区の慰霊祭などの行事の時は6カ所の寺院の住職が参加されます。なお光明寺というお寺は住職が不在ですので、多賀の真如寺の住職が来られます。宗教施設の詳細と、年に1度執り行われるの法要(寺屋敷法要)について、下のボタンよりご覧ください。

敏満寺というお寺について

Q1)敏満寺はどんなお寺でしたか?

A1)宇治の平等院の末寺の大寺院でした。湖東三山の西明寺や永源寺などを思い浮かべて頂いたら結構です。敏満寺を中心に宗教都市がひらけていました。

Q2)敏満寺は今もありますか?

A2)残念ながら今はありません。戦国時代に浅井長政や織田信長に焼かれて滅亡してしまいました。

Q3)敏満寺はどのあたりにありましたか?

A3)青龍山(敏満寺山)の山麓、現在の胡宮神社のあたりに山門や金堂、三重塔がありました。また名神多賀サービスエリアのあたりに関連する建物がありました。場所の詳細は、下のボタンよりご覧ください。

​Q4)敏満寺はいつ創建されたのですか?

A4)文献に初めて名前が出る平安時代の天治2年(1125年)以前には存在していました。創建された正式な年はわかりません。

Q5)敏満寺を創建したのは誰ですか?

A5)創建された平安時代は山岳仏教が盛んな頃でした。伊吹山寺を9~10世紀初頭に開いた三修上人の弟子で、東大寺水沼荘に関連する敏満童子(水沼童子)という人がいます。寺の創建のいわれではこの人が創建したとされています。

Q6)敏満寺はいつ滅亡したのですか?

A6)浅井長政の焼き討ちは戦国時代の永禄3年(1562年)と言われています(諸説あり)。織田信長の焼き討ちと敏満寺の所領没収は1572年と言われてます(諸説あり)。

Q7)敏満寺は焼き討ち前はどのようなお寺でしたか?

A7)今は小さな農村の敏満寺地区も、当時は地域の重要な経済、物流、文化の中心地でした。現代ではお寺はひっそりとしたイメージがありますが、当時はお寺とその周囲には僧侶以外に職人、商人など多くの人が住んでいました。お寺は彼らを保護し、営業権を与えていました。また領地の農民からの年貢を資金に金融業も営んでいました。おそらく僧兵のように武力も持っていたと思われます。

 

Q8)敏満寺はなぜ焼き討ちされたのですか?

A8)先に述べましたように敏満寺は湖東地区の一大勢力でした。そのため戦国時代にはどの勢力につくかで運命が分かれました。近江守護職の佐々木氏は北の京極氏、南の六角氏に分かれました。京極氏は家督争いで衰退し家臣の浅井氏が力を持ちます。浅井氏と六角氏と勢力争いをしますが、その境界の位置にあったのが敏満寺で、六角氏側についた敏満寺が浅井長政に焼き討ちされることになりました。また織田信長が勢力を畿内に広げたとき、将軍足利義昭は武田信玄、朝倉義景らと信長包囲網を築きます。敏満寺はその時、信長への対応を誤り焼き討ちにあい、寺領を取り上げられ、滅亡することになりました。

敏満寺のあるある

Q1)敏満寺にはお城があった!?

A1)はい、敏満寺には昔、お城がありました。お城と言うと、大きな堀があって天守閣がそびえる彦根城のようなものを想像しますね。敏満寺城は戦国時代に敏満寺という大きなお寺の敷地にあった山城です。天守閣はありませんが、土塁、空堀、石積み、曲輪、虎口などがありました。場所は今の名神多賀サービスエリア上り側の北の部分です。浅井長政と織田信長に攻撃され、歴史から消えました。城跡の図面が調査で作成された資料を、下のボタンよりご覧ください。

​Q2)敏満寺にはサルが出る!?

A2)はい、敏満寺にはサルが出ます。鈴鹿山系に住んでいるサルがエサを求めて人家の近くに来て畑の作物を取って食べます。胡宮神社周囲の青龍山を囲うように防獣柵を設けています。鹿や猪には一定の効果がありますが、サルは賢く、易々と柵を超えて来ますので、全くお手上げです。

Q3)敏満寺にはスターバックスがある!?

A3)はい、敏満寺は田舎ですが、地区内にスターバックスがあり、朝起きたら散歩がてらによって、優雅にカフェラテが飲めます。以前、敏満寺でホームステイしたイタリア人を案内したらすごく喜んでいました(その頃、まだイタリア全土にはスターバックスはなかったのです)。名神多賀サービスエリアには他に王将、ロッテリア、CoCo壱番屋、ちゃんぽん亭などいろいろなお店があり、外食には困りません。スイーツも食べられますし、滋賀県のみならず北陸、中部の名産品も購入できます。もっとも酒類は売っていませんので、王将で餃子を食べてもビールは飲めません(残念!)。

 

 

Q4)敏満寺は便利な田舎!?

A4)はい、一見不便そうですが、実は便利です。JR琵琶湖線の駅からは遠いですが(南彦根駅や河瀬駅から自動車で20分くらい)、アメリカの町と同じで自動車で移動すると便利です。名神高速道路がすぐ近くにあり、京都駅や名古屋駅まで約1時間です。また敦賀まで約1時間でカニを食べに行けます。現在、敏満寺地区にスマートインターが建築中で、今後ますます便利になります。

Q5)敏満寺の住民は多賀町民なのに、多賀大社の氏子ではない!?

A5)はい、そうです。多賀町と言えば、滋賀県で年間観光客ナンバーワンの動員数を誇る多賀大社が有名です。普通、多賀町民はその多賀大社の氏子と思いますが、敏満寺地区は違います。歴史的に見て、敏満寺と言う大寺院に胡宮神社があり、地区の住民は胡宮神社の氏子であり、多賀大社の氏子ではありませんでした。今でも地区の住民の中から氏子総代が選挙で選出され、胡宮神社のお世話をされます。昔は多賀大社と胡宮神社の仲が悪い時代もあったようですが、今はそのようなことはありません。胡宮神社の春のお祭りは、多賀大社のお祭りの前日と決まっています。また胡宮神社の神事に多賀大社の神主が来られることがあります。

Q6)胡宮神社は何かと個性的!?

A6)はい、胡宮神社にはいくつか個性があります(下の5つ)。
・まず立地が面白いです。実は名神多賀サービスエリアの駐車場に車を止めて(下り線のほうが近いですが)歩いて数分で神
社に行けます。サービスエリアにこんなに近い神社はなかなかないです。
・また拝殿への石段は妙にかさ高いです。昇るのに結構苦労します。神社は清涼山という山の麓にあります。この山自身が
元々信仰の対象で、山の麓に拝殿がある、古い形態です。
・神社の中に仏教のお堂(大日堂、観音堂)があります。昔は神仏習合でこれは当たり前でしたが、明治時代の廃仏毀釈で
ほとんどの神社の仏教のお堂は壊されました。これが残っているのは価値あることです。
・本殿は徳川家光の寄進で日光東照宮を建てた甲良大工により建てられました。一見の価値があります。なおたまにサル
が屋根で休んでいます。
・石仏谷には中世の墓地のあとがあります。日本全国広しといえど、中世の墓地がきちんと残っているところはそうそう
ありません。

Q7)敏満寺では下の名前で呼び合う!?

A7)敏満寺では姓で呼びかけず、下の名前で呼びかける風習があります。山本、吉川、種村、新谷など同姓が多く、姓では区別しにくいからかもしれません。また、小路名と合わせて、”仮屋の山本さん”というような呼び方もします。

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